錦華小学校  - SETU ART GALLERY
toggle
2014-08-01

錦華小学校 

錦華小学校

錦華小学校

image

錦華小学校の資料が見つかりました。
記憶の通りです。

歴史的農業環境閲覧システム
http://habs.dc.affrc.go.jp/
これは1800年代の地図なので、古くてわかりません。

参照:神奈川大学 関東大震災・復興データベース
http://kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index.html

ここの地図から探したら、当時の錦華小学校や駿河台の様子、明治大学などの位置がよくわかりました。

東京大震災被災地図 神田駿河台付近

東京大震災被災地図 神田駿河台付近

東京大震災被災地図 神田駿河台付近

東京大震災被災地図 神田駿河台付近

帝都地図 神田駿河台

帝都地図 神田駿河台

華族の学校があって、それが錦華小学校になったって聞いたように思うけれど・・・


上記のことは、町内の歴史から、お屋敷町だったのが一部、小学校の敷地になったことを指しているのかもしれない。

中猿楽町

[現]千代田区神田神保町かんだじんぼうちよう二丁目・西神田にしかんだ一丁目

明治五年(一八七二)に起立。西小川にしおがわ町一丁目と北神保町の東に位置する町。納戸町と通称(東京区分町鑑)。江戸時代はおおむね武家地。寛永江戸図では鈴木喜兵衛などが屋敷を構えている。沿革図書によると、延宝(一六七三―八一)以前は水野伊予守・大森信濃守など一七軒の武家地。文久元年(一八六一)の絵図では松平備後守など二一軒の武家地。周囲を含めてすべて武家地で、西側の往還は広小路と通称、東側の往還は一ッ橋ひとつばし通。広小路は北神保町・西小川町一丁目と当町間の道で、明治五年当時町内には華族錦小路頼言・豊岡健資・高辻修長の屋敷があった。同七年九月錦にしき町にあった錦坊学校が町内に移転し、錦華きんか学校と改名して開校(東京府志料)。
http://www.top-est.com/pages/nakasarugakucho

関連記事